ここしばらく、日大のアメフトの問題で喧しく揺れています。勝ち負けの世界ではあるが、スポーツの精神の何たるやをいま一度、見直すべきでしょう。
アメフトに限らず、こと学校教育におけるスポーツの監督・コーチは、競技を通して選手の人間性を育てることに傾注しなくてはなりません。人間性の育成を忘れた指導を、師と呼ぶことはできないのです。
師匠と先生は、似て非なるものです。
先生は、学び手にとってわかりやすく教えてくれますが、師匠は必ずしも教えることを本義としません。先生は論理的に筋道を立てて教えますが、師匠の多くは、ある意味もっと体験的で直感的な育成を行います。わかりやすい例を挙げれば、落語家の師匠がそうです。弟子に稽古をつけることもありますが、芸事の基本はすべて「見て盗め」。カリキュラムもテストもありませんが、弟子は師匠の一挙手一投足を真似て学びます。
同様に小学校の先生と、園の先生も違います。前者に比べ後者は、少しニュアンスは異なりますが、師匠的といってよい。教えるのではなく、子どもと活動や生活を共にしながら、みんなで生きることの喜びを育みます。何かができる、わかることよりも、一緒にやってみる、共鳴したり共感したりすることに喜びを見出すのです。
そのために園の師匠は、動きやことば、表情や姿勢が「かっこよく」なくてはなりません。それは決して権威ではないけれど、弟子(子ども)たちにとって模範であり鑑であり、そして憧れの対象です。上からの命令や指示、強制など一切なく、ただそれに憧れて、弟子たちを感化していくものなのです。また、そうであってこそ、弟子たちのほんとうの自発性・主体性が芽生えるのではないかと思います。
師匠の原型を、園の先生のすがたに見るのです。