「会話のできない自閉症の僕が考えていること」とサブタイトルのついた「跳びはねる思考」を読みました。23歳の東田直樹さんが書いたベストセラーです。詩人であり、エッセイストであり、絵本も描くマルチな才能の持ち主ですが、彼は言葉が話せず、パソコンがなければコミュニケーションができません。
その本の中に、印象的な一節がありました。
「話せない人が言葉を伝えるためには、ものの名前を理解するとか、文法を学ぶことだけではなく、考える力を育てることが重要だと思っています。話ができず不便だったり、大変だったりすれば、どうしたら少しでも言葉が伝わるか、自分でも工夫し、何とかしようとするはずです。これは報われるためではなく、生きるための努力なのです」。
この「生きるための努力」とは、言葉と人間の原初の関係において、普遍的な事柄です。子どもも自分の考えが言葉にできない。だから無知で未熟とは誰も考えない。逆にその子の言葉の奥にあるものを読み取る態度が、教師や親には求められるのだと思います。さて、私たちは、生きるための努力に、きちんと向き合っているのでしょうか。
唐突なようですが、去年父を亡くしました。死期の3日間を、病室で一緒に過ごしたのですが、すでに父は言葉を失い、病床では昏々と深い眠りにありました。訊いても応えない、無反応な状態です。
しかし、矛盾するような感覚なのですが、私は、その時ほど父親の言葉が心に届いたことはありませんでした。言葉の意味の伝達とか理解ではなく、魂の言葉そのものが読み取れたとでもいうのでしょうか。それはたぶん、父と子として私たちが培ってきた長い長い関係性の上に実ったものだと思うのです。
子どもも同じではないでしょうか。私たちは子どもの言葉の意味や説明を聞いているのではなく、その真意を読み取ろうとしている。もちろん聴く態度や姿勢も大事ですが、それ以上にたいせつなものは、何気ない日常の言葉をより確かなものにと裏打ちする、先生と子ども、親と子どもの毎日の暮らしであり生活であるだと思います。それは、「生きるための努力」に向き合う、園生活の日々と重なります。
新しい年が始まりました。園舎いっぱいに、また子どもたちの歓声が響き渡ります。いつも同じ日々ではあるけど、日々生まれ変わっていく子どもたち。日課活動も、体育ローテーションも、そんな子どもの内なる言葉を引き出すための、先生と、あるいは子どもどうしのゆたかな関係づくりの舞台なのです。
今日、あなたは子どもとどんな言葉を交わしましたか。生きるための努力を、またともに育んでまいりましょう。
今年もよろしくお願いいたします。