体育ローテーション。みんなとともに生きていく。

4月もはや半ば、私たちの幼稚園も平常保育となりました。朝の体育ローテーションは総幼研活動の代名詞。軽快な音楽、子どもたちの活力、みなぎる意欲。やはりこれがないと、一日が始まりません。
 ローテーションのようすを見学してきました。
 3歳児たちはまだ入園して2週間だというのに、小さなからだを思いっきり跳躍させながら「場」を満喫してくれています。4歳、5歳は合同ですから、一面に百人、二百人という子どもが集合して、ここにしかない「場」をつくりあげていく。圧巻の思いがします。

 「体育」と聞くと、私たちはすぐさまスポーツを連想します。もっと速く、もっと強く、もっと高く…何らかの度量衡があって、少しでも高い数値を競うのが現代スポーチの原則ですが、体育ローテーションはまったく趣旨が異なります。ここかしこに体育器具は配置されているが、跳び箱やマットを一つ一つ完遂させることがねらいではない。修得するは種目ではなく、ローテーションという全体の流れなのです。
 ここでは、できる、できないは問題ではありません。まわりの何百という子ども(仲間)の流れに同化していくうちに、知らず知らずその「場」の力に共振していく。それは、個別の能力とか評価とは無縁のものです。
 ひとりではなく、みんなと一緒につくりだしていく何か。みんなの中の一員としての自分。すべてが個別的に相対化されていくシステムの中で、「他者と共生する」とか「他者と同化する」というもっとも基本的な感覚を、意味理解ではなく仲間との身体運動を通して感得していくのです。
 
 人間はなぜ動くことを好むのでしょうか。赤ちゃんが手の鳴る方(親)へハイハイを始めるように、人間の本性としての「動き」を引き出すには、他者との好ましい関係こそが重要なのです。子どもは、嫌なものに向かって動かない。このことはテレビや携帯が幅を利かす(10代のスマホ視聴時間は一日4時間!)「動かない」時代にあって、いっそうつよく認識されなくてはならないと思います。
 幼稚園の場合、他者とは「みんな」です。初めて出会った者どうしが身体を寄せ合って、もうひとりの「みんな」をつくりあげていきます。体育ローテーションは、「みんな」とともに生きてく(動いていく)ことの共感や信頼の下地を描き出していくのです。

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