昨日、11月1日は今年から新たに制定された「古典の日」でした。古典文芸や芸術への国民の親しみを促すことを目的に、新たな記念日として超党派の議員立法で創設されたと聞きます(11月1日は「源氏物語」記述の日ともいわれています)。
私の子ども時代、小学生の頃は、世界名作全集や偉人伝を読みふけったものでした。青年時代は、映画に没頭していたので、フィルムセンターに通っては古典といわれる名画を見て回りました。取り立てて古典愛好家ではなくても、私の世代には無意識にうちに古典にふれる機会が多かったように思います。今ほど新しい情報が氾濫していなかた、ということもあるでしょう。
今回の記念日創設の背景には、青少年の古典離れへの危機感もあると思います。メディアの情報過多はいうまでもなく、私の青年時代にはなかったインターネットが世界規模で普及し、少しでも変化の速い、鮮度の高い価値が求められるようになりました。そんな時代だからこそ、変わらないもの=古典が大切になるのですが、まずはそれに親しむ心の余裕や時間に欠けているのが現実かもしれません。
パドマ幼稚園に限らず、総幼研の園の教室の黒板には、名詩といわれるもの、俳句や和歌、漢文など古典文芸が所狭しと貼りだされています。書いてある意味や中身を教えるものではなく、日本語の名文・美文が持つ韻律や音感を与えるための工夫です。それらは身体的に学ばなければならないので、必ず音読を伴います。それも単独ではなく、みんなで読む群読。古典とは声に出して読むにふさわしいものなのです。
グローバルな情報化が加速し、世界が一瞬のうちに相対化される現代、自国のアイデンティティを持つことはとても重要なことです。むろん英語教育もだいじですが、まず古典を通じて日本文化に自覚と誇りを持つことが先決ではないでしょうか。
古典は時代の選別を経て残ってきたものですから、それが学びの入り口たる園の教室にあるのは、考えてみれば至極納得のいくものです。総幼研の子どもたちが、古典と意識しないが、いつの間にか古典の素養を形成しているとしたら、こんなうれしいことはありません。