人間力の3つのカン
■AI時代における人間力の根源とは
最近話題の本「AI vs 教科書が読めない子どもたち」を読みました。AIの研究者として知られる新井紀子先生の著作です。
要約すると、AI技術が人類を滅ぼすシンギュラリティなんてものは来ない。AIは高度な計算機であって、記憶や計算は得意でも、本質的な意味の理解などできない。しかし、人間固有の基礎の力、特に読解力を子どもの時代につけておかないと、必然的に機械に仕事を奪われる、雇用を失うというような内容でした。いまや中学生の2人にひとりが教科書をまともに読み解けていないという、深刻なデータも掲載されています(リーディングスキルテスト)。
似たような話は他にもあります。今日、グーグルをはじめAI翻訳機の進歩が加速しており、すでに日本人の平均的な語学力を完全に超えているといいます。東京オリンピックまでには多言語に対応する翻訳機が普及するそうで、そうなると言語習得よりもグローバルな人間力こそが必要なのではないか、と仕切りにいわれるようになりました。これもまた、人間固有の力を問うリアルな課題です。
AIの性能の進化について言及する力を私は持ち得ませんが、その著しい進化が、人間力の根源を問い直す大きな契機となっていることは確かです。それをある人は創造力といい、ある人は身体知ともいいますが、ここではAIが代替することのできない、人間固有の力、「3つのカン」(感・勘・観)について考えてみましょう。
■感と勘、初期の芽生え
ひとつ目の「感」は楽しいとか悲しいとかを感じる感覚や共感の発達のことをいい、その経験から2つ目の「勘」である「勘所」を体得していきます。その上ではじめて3つめの「観」としてビジョンや大局観が体得されるというプロセスが踏まれるのです。これら3つのカンを考えてみると、とりわけ最初の「感」と「勘」はいずれも幼児期において初期の芽生えを促すことが重要であるといえます。
入園間もない年少児たちにとって、毎日の園生活が「感」そのもの、家庭とは異なる様々な刺激を受け、それによって「感」のスイッチを全開にします。
年長ともなれば、園生活で積み上げてきた「感」の蓄積が、一定のコードとなって身体の型として定着していく。これが「勘」の原型です。具体的には、指示や説明がなくても、作業や運動に集中できる、先生が前に立つだけで、姿勢が正される、みんなで一斉に動くことができる。内面化された身体感覚といえばよいでしょうか、状況に対し、無意識のうちに身体の構えが整うのです。
「感」も「勘」も勉強したから身につくものではありません。確率論によって定着するものでもありません。そこには、まず子どもが「感」を楽しく受け入れる環境、生活のリズムやくりかえしがあって、さらに多くの仲間との交流や協働のよろこびがなくてはならないと思います。「勘がよい」「直感に優れている」といわれる人ほど、そんなゆたかな幼児期を過ごしてきたのではないでしょうか。そこには、テレビやスマホなど数値化された「感」によって支配されつつある現代の子ども環境への、根本的な問い返しがある、と私は考えます。
園教育とは人間性の基礎基本を育む教育です。では、人間性の基礎基本とは何か。AI時代において、私たちが見失いつつあるその原型を思い起こし、新たに蘇生していくことが園の役割なのかもしれない、そう思うのです。