百読おのずからその意を解す。言語感覚を育む。

◆武士の娘が受けた教育
 幕末から明治、大正、昭和を生き抜いた杉本鉞子(えつこ)という女性がいます。意外にその名を知る人は少ないのですが、恐らく英語で世界的ベストセラーを書いた最初の日本人女性として記憶されています。彼女が著した名著「武士の娘」は、いまなお日本研究には欠かせない名著のひとつです。

 19世紀幕末、長岡藩の家老の高級子女であった鉞子の幼児教育について、興味深い記述があります。6歳の鉞子の師匠は菩提寺の住職、月に2回屋敷にやって来て、中国の古典、四書を学ぶというものでした。
 講義の内容はまったくわからなかった、と鉞子は述懐しています。多くは声に出してテキストを素読するのみだったので、聡明な彼女は師匠に「この尊い文章の意味を教えてほしい」と願い出るのですが、取り合わずこう言ったと書かれています。
 「この文意を理解するにはあなたの分を過ぎています。いずれわかる時が来ましょうからそれまでお待ちになりまさい」

 一般にことばの機能は、意味情報の伝達とされています。他者とのコミュニケーションの仲立ちとして重宝されますが、外部への意味表示のみならず、自分自身の内部への働きかけ、たとえば思考を深める、感情を制御するなども、ことばが主体をなします。
 自分を律したり、励んだり、そういう心の部分も、ことばによって紡がれているのです。とりわけ幼少期において、ことばはまさに人間力の中核を担うものであり、そのためにまずゆたかなことばの体験が必要となるのです。

 鉞子は成人した後、さきほどの師匠の言葉が身を以てわかったと言っています。「百読おのずからその意を解す」。まさに日本人のことばの教育の祖型がここにあります。

◆ことばの意味を超えるもの
 さて、人間力に結びつくようなことばの力を獲得させてくれるものとはいったい何でしょうか。学校教育の教科学習というようなものでもその一つですが、系統的に学べば、人格が高まるという相関関係も見当たりません。
 質の高いことばにふれ、声を発し、声を聞くという、幼児からの不断のいとなみに加えて、読む、書くことの多寡が、本質的な言語能力獲得のカギとなります。生まれたばかりの子どもが、まわりの言語環境を糧として、言語感覚を身につけていくのと同じく、ここではことばの意味情報はさしたる意味をもちません。多岐多量多様なことばにふれて、それを自分が使う言語として整理、系統化していく力を、子どもの脳はすでにもっているのです。

 そういえば、江戸時代、庶民の文化レベルは、西欧の先進諸国と比べても非常に高い水準を誇っていたといわれています。寺子屋では鉞子同様、幼児から素読などの薫陶を受けて育ってきました。これまた意味にこだわらない言語活動です。ユダヤの人はユダヤ教の、アラブの人がコーランを、みな音読し暗誦するという文化があるのも、同じ伝統があるからでしょう(余談ですが、先日鑑賞したサウジアラビアの映画「少女は自転車に乗って」では、現代の小学校でもコーランの暗誦教育が推奨されている様子が描かれていました)。

 子どもの言語環境は、昔に比べれば格段にゆたかになっているように見えます。とくにテレビやネットなど、膨大な量のことばが子どもにも注がれていますが、果たしてそれは鉞子が求めたような真髄であるのかどうか。先般、日課活動の脳内実験を担当された脳科学者の篠原菊紀先生も、日課活動のプログラムで扱うことばは長い間に陶冶されてきたなかで残っているものがよいと指摘されていました。なぜ鉞子の時代、意味のわかりもしないテキストを使用したのか、に留意をしなくてはなりません。

 総幼研の日課活動では、音読・素読が必須です。子どもたちが毎日のごとくに親しむ詩文、漢詩の音読など、その意味は往時の素読、教典の暗誦と同じです。質の高い(語感もリズムも)ものを、やわらかい(脳が育っている)子どもの言語感覚の内部に封じ込める。知識ではなく感覚に刻み込むといういとなみです。 そしてそれを、決まって子どもたちは楽しむ、打ち込む。その連続の中に、やがて花開くすぐれた言語感覚が培われると信じます。
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