なぜ挨拶がたいせつなのか。「有り難う」の本当の意味について。

新年を迎え、どの園でも子どもたちと「再会する」初日、「おめでとう」と言う声が聞こえてきそうです。
日本の挨拶は、相手への敬意、感謝、思いやりにあふれた、独自の豊かな文化です。「おはよう」は「早くからご苦労さまです」、「こんばんは」は、時候やご機嫌をうかがう省略形、「おやすみなさい」は、今日一日の務めを全うした相手に対し、「ご苦労さまでした。ごゆっくりおやすみください」というねぎらいの心があふれています。

中でももっとも美しい挨拶ことばとして、「ありがとう」を挙げる人は多いでしょう。漢字で書けば一目瞭然ですが、「有り難う」とは「めったにないことをしてくださって有り難いことだ」の意で、相手との尊いご縁に感謝しながら心をこめて発する挨拶です。現代人は、人生は自分の意のまま、何でも望み通り叶えることが善だと疑いませんが、本来生きることは「ままならない」のであって、その中で「自分の思うとおりになったことは、よき因縁が整った有り難いこと」なのです。数々の心づくしがあふれる、日本の挨拶。失礼ながら「グッドモーニング」の英語挨拶とは深さが違う。

昔も今も、挨拶は人間関係の潤滑油といわれてきました。地域でも職場でも、それは同じはずですが、では最近の暮らしから挨拶がすたれているといわれるのは、礼儀、マナーが退化してきたからでしょうか。それもあるかもしれませんが、私はもうひとつ、挨拶なくして生きていくことができてしまう、現代社会の特殊な事情を投影していると考えます。
挨拶が不可欠だったのは、生きていくことが周囲の家族や仲間に支えられていたからであって、その関係づくりの知恵として挨拶は発達していきます。「一日は挨拶に始まる」とは、社会生活や組織行動の原理です。逆にいえば、挨拶しない者には仲間外れもあったわけですが、いまの仲間は、むしろネット上に存在します。顔の見えない、時間や体験の共有もない。だから一部の親しい人以外、回りは皆他人になってしまう。人間関係が極端に狭く、しかしそれで足りてしまうことが、今日の挨拶文化衰退の大きな要因かと思います。
子どもたちの園生活とは、そういう人間関係の原理を学ぶ場であり、挨拶文化発揚の場でもあります。「有り難い」いのちを授かったことを喜び、ともに燃やしつづけようと子どもたちにはたきかけること以外にないと思います。

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